スルーするのも受け止めるのも

近藤淳也さんのこのエントリ。批評については思い当たる節も多々あるので取り上げる。

スルー力なんて無くていい

んーというか、「問題は『誰』の意見だからスルーする/しない」なんて人任せなところで結論出しちゃ、余計コミュニティ依存というか、環境に依った局所解に集約しちゃうんじゃないのかしら?と疑問に思うわけですよ。
いつも考えるのだけど、(批評の範疇に限定された)言葉は道具なのだから、誰々が発したから重みが変わるというものでもないと思うのですよ。あるとすれば、抽象的か、より具体的か程度の違いであって。(具体的なものは自分の目下の問題の解決の糸口になるかもしれないし、抽象的なものは自分の方向性や新たな経験を積むのに役立つかもしれない。)

近藤さんはアーティストの話を持ち出しているけれど、じゃあそのアーティストの作品なり作風というものは、自分にとって親しい人やあるいは全くの赤の他人が見たとき、急に作品が素晴らしいものになったり駄になったりするわけじゃない。受け手の感性の違いで様々な側面こそ見え、ただ事象はそこにあるだけ。

結論を先に述べてしまうと、批評をスルーするかしないかなんてのは、その表現者自身あるいはその表現者が生み出した作品のもつ方向性や伝達性に潜在する様々な問題に対して、より有効な意見かどうかを考慮して自らが取捨選択するべきことだ、と思うのですよ。自分が作品を生み出したとき、色々な思想や技術や挑戦、失敗点なんてのが混在しているはずだけど、それら整理し問題を洗い出したあとで、批評の中に望む回答があるかないか。あるいは予想だにしない回答が自分の今後に繋がり得るかどうか。そこには辛辣なものも、当てにならないもの、ただの罵倒などもあるけれど、人の感情のそれを取り除いてしまえば、そこにはただ言葉しかないわけで。あとは自分が自分(の作品)についてを把握していれば(かつそれらに対して熟考するだけの寛大さ、余裕があれば)、自ずとスルーするしないの基準なんてはっきりするんですけども。

私見の理想論を溢すならば、自分の「作品(創造されるもの、演出されるもの、思想など)」に対して真摯たれば、赤の他人の中傷に凹んだり、身近な人間の当たり障りのない意見に一喜一憂したり、リスペクトする人間の気まぐれな言葉に感涙する必要も全くもってないわけですけどね。まぁ、自分ができてないんですが。