飼育

ガラス張りのケージの中で、絶えずハムスターが走り回る。最初は4匹しかいなかったために丁度良い大きさだった小さ目の水槽も、つがいが子を産み、総数20匹にもなってしまった時のその狭さは悲惨なものだった。それもしばらくすると、自然淘汰でいつしか半数近くまで減ったが、それでも生きるに広いとはいえないナワバリを死守あるいは侵攻するため、争いは途切れる間がなかった。
いつしか賢しい何匹かは手を組んだのか、寄り添って眠るようになり、時に互いのナワバリを脅かすライバルに、共闘をするようになった。また別のいくつかは上空に逃れようとし始めた。しかしガラスの前ではその爪も用をなさず、別のライバルを踏み台にしては、短い手足を空中にばたつかせ、また倒れる、ということを繰り返していた。やがてケージの上面に1匹の手が届いたが、そこにはまたガラスの蓋がしてあるため、何を掴むでもなく、また木屑の床に落ちていった。

乾いた雷音の後に、なま物の潰れる鈍い音がした。それが、そのなま物が後から同僚に聞かされたその時だった。

当の本人が体験したそれはもう少し違っていた。まず、ガラス片で皮膚が裂ける音がしたのだが、これが酷く騒がしかったことを覚えている。ひとしきり盛大な音を立てたそれが聞こえなくなってすぐ後には、骨が砕け、肉が千切れ、骨と皮の袋の中身がことごとく揺さぶられた感覚を味わう。何かがじんわりと、背中の辺りを染ませていくのがわかったが、それが冷や汗なのか血液なのか、それとも髄液なのかは確認のしようがなかった。絶えず襲ってくる痛みが、動物としての防衛本能を妨げていた。やがて四肢の先端から、感覚と体温を食らいながら痺れが這い上がってくるのを感じた、その辺りから記憶がはっきりしない。その間に2,3人が何かを喚いていたような気がしたが、男の「その時」は、遅れて降り注いだ鋭い雨が体に降りかかってきた場面で終わっていた。

たかが一人の、それも3F廊下の突き当たりにある1枚ガラスを嬉々としてぶち抜いて10mの高さから飛び降りるような狂ったなま物にまで、ベッド一つと手厚い看護を振舞ってくれるこの国と、「健全な」企業の保険制度には感謝せねばなるまいか――。重い足枷手枷を科され、頭の中で悪態をつく程度のことしかできない身では、意識が戻って3日もすればつくべきネタも切れてしまうもの。世間一般的な罰としてはまだ足りないだろう、などと心のうちで笑っていたところで、彼の同僚が病室に入ってきた。生真面目で非常に良識的な彼の相手をすることを億劫に感じたため、男は聾唖を気取ることにした。彼は病室に入るだけでも慇懃に、その後も一通りの模倣的な「気遣い」を披露した上で、他人なら至極当たり前に感じる一つの質問をしてきた。

「なぜ、そんなことをしたのか」

微かに唇は動かしてみるが、言葉にはしない。やがてしばらくの沈黙の後、常識的な彼は「常識的な判断」を行ったのだろう、当たり障りのない話題を発して場を取り繕おうとしていた。片方は口を利かぬのだから、浮ついた丁寧語は逆に自分の痛ましさを助長させるだけだというのに。その態度があまりに、常識的であろうと必死すぎて、男は口元までこみ上げる笑いが表情に表れないようにするのに必死だった。やがて同僚は、そそくさと身元を片付けて、一応の悲しそうな顔をもって静かに部屋を出て行った。男は、彼の靴音が遠く消えたのを確認してから、筋肉が緊張した状態でできる最大限の笑いを浮かべた。その後、彼が職場に赴き、いかにも悲惨そうな男の様子を皆に伝え、それを肴にコミュニケーションの出汁を取ることを想像しながら。

看護士が何度か様子を見に来る以外に、男の病室を訪ねるものはいなかった。わざわざ自分たちの少ない自由時間を割いてまで人の面倒を看ようなどという物好きはそういるはずはなく、その上口先だけの理想主義者、空気を読まない、関わり合いになると迷惑を被ってしまうタイプの人間など、物好きですら相手にはしない。男は男で、個人の世界観だけで社会を測る個人主義者には辟易していたし、批判即悪の馴れ合い体質の人付き合いなど御免被るとばかりに構えていたものだから、この顛末も特に気を留めるでもなかった。無論、先の同僚もただ形式上の職場代表に過ぎない。

「別に理由があったわけではない」悪態のタネが尽きた男は、彼の質問に答えてみようと思った。「問われても答えようが無い。あえて言うなら、そうしたいと思ったから」それが率直な思いだった。黙々と生きるための雑事をこなし、小奇麗なフロアの片隅で、吐き気を催す上辺の応酬に身を任せざるを得ない中、ある者は徒党を組んで人を貶め、ある者は表面を取り繕って裏で嘲い、ある者は人を足蹴に良い顔をする。「あるいは、気が触れたのかもしれない」そのような環境のせいで、という言葉が頭を過ぎった時点で、男はまた哂い、頭を振った。「気が触れているのは以前からではないか」。そういった環境の中に我が身を順応させ、火の粉被らざれば由とするのが「真っ当で常識的」だとする世の中で「気が触れた」と位置づけられれば、それはどちらの気が触れているといえるのか――。そこまで考えて、また頭を振った。「どう繕ったところで――」。笑い声。

今の職場にはおれまい。ガラス張りの小奇麗な、身に過ぎた職場には。「ガラスは破った。しかしその先は、どうだ?」陽が落ち、すっかり暗くなった暗室では、差し込む月明かりで純白のカーテンがおぼろげに光っていた。

その前を小さな影が横切る。「1、2、3…、10、と…1」。夢か現か、幻か。見るでなく、いや、正しくは視線を向けることができないまま、走り去る影を数えた。小さな影の行く先は知れている。だが、俺はハムスターではない。そう思いたい。なら、どうだ……?

影はすでに見えなくなった。そこにはただ、男が一人いるばかり。やがて、ゆっくりと脳が麻痺し、男の視界は闇に流された。